笑子(えみこ)です。
本音を言うのが苦手なわたしの、自己紹介を書くというチャレンジ
自分のことを知ってもらいたいと思うようになれたのは
これまで出会ってくださったみなさま、そして
これから出会うみなさまがいてくださるおかげです。
今のこの気持ちに素直に
自分のこれまでについて書いてみようと思います。
みなさまの人生にも
もしかすると共通するところがあるかもしれません。
少しでもお役に立てることがあれば幸せです。
【誕生】
1977年1月18日、広島県尾道市
海と山に囲まれた小さな瀬戸内の島で、父29歳、母24歳の長女として生まれます。
両親はお見合い結婚で
父は公務員、母もわたしが小さな頃から正社員として働いていました。
保育園、幼稚園と通い
同居していた父方の祖父母に面倒をみてもらうという
ごく一般的な家庭に育ちました。
祖父は厳格な人で
ご飯を食べている時は私語禁止などルールもありました。
今でも覚えている祖父の朝食は
4枚切りの食パンに
端までキレイにバターを塗って
最後にバターナイフで斜めに切り込みを入れ
そこに更にバターを染み込ませる
この一連の流れを毎朝必ずやっていた祖父は
もちろん、一言も喋ることなく朝食を食べていました。
恐いながらも祖父と一緒に過ごす時間を
楽しみにしていたわたしは
祖父の膝の間に座って時代劇(テレビドラマ)を見るのが好きでした。
わたしが4歳の時に双子の妹が産まれ
一気に三姉妹になります。
これを書いている今
わたしにも4歳の娘がいますが
4歳の特徴なのか
「わたしを見て、わたしの言うことを聞いて」
というアピールもすごければ
「ひとりがいいから見ないで」というような
干渉してほしくない時もあったりで
取り扱い説明書が欲しいくらい戸惑うことがあります。
そんな時に
更に双子が産まれるというのは
母親にとっては、幸せと覚悟が同時に産まれるような感じでしょうか。
父は当時を振り返ってこう言います。
「わしは、あんたらが小さい頃に
子育てに関わってないけーのぉ。
母さんはほんまによう育てた思う。」
双子を両腕に抱いて同時に乳を飲ませていた
なんてエピソードも聞いたことがあります。
その横で
わたしはどんなこどもだったんだろう?
自分が4歳だったころを思うと
今の娘の姿と重ねて
きっとたくさん甘えていたんだろうなと(笑)
わたしは母のことが大好きで
特に「大丈夫」と言ってもらうことが何より安心できました。
不思議なことに
わたしの娘もわたしに「大丈夫」と言ってもらいたいらしいんですよね。
母と子の関係って
巡り巡ってそのようになるのかもしれません。
【楽しくも苦い思い出】
わたしが通った小学校は
すぐ横に海がある小さな小学校でした。
クラスメイトは40人に満たなかったので
入学から卒業までずっと同じ仲間と過ごしました。
小学1年生の帰り道
細い通学路にある
みかん畑の脇に差し掛かったところで
仲良しだった男の子が言いました。
「チューしてくれたら、このみかんあげる」
わたしはよっぽどみかんが欲しかったのか
その誘いにのって
まんまとチューをしてしまいました(笑)
もちろん、みかんゲットしました^^;
翌日、この行動が元で男子から冷やかされ
めちゃくちゃ恥ずかしい思いをしたのを覚えています。
なんで、あんなことしたんだろう
そんなにみかんがほしかった?
自分で自分の行動が理解できなくて後悔しまくりましたね。
思春期に男の子との接し方がわからなかったのは
もしかしたらこんな些細な出来事がきっかけだったのかもと
当時を思い出しながら思います。
中学にあがって間もなく衝撃的な事件が起きます。
小学校の頃から一番の仲良しだった女の子から
一通の手紙を手渡されました。
そこにはなんと
「えみちゃんの嫌なところ」
そう、わたしの嫌なところが
つらつらと書き連ねてあるではありませんか。
しかも、ご丁寧なことに
クラスの女子にも聞いて書いたよ、と。
今思い出してもゾッとします。
そこからしばらく、一部の女子から無視されるようになりました。
その時の自分の感情や書いてあった内容など
詳細に思い出すことはできませんが
今でも強く記憶に残っているので大打撃を受けたのは間違いないです。
そして、その手紙をくれた女の子とは、そこから疎遠になります。
まぁ、そうですよね(笑)
自分のことを嫌いだということがハッキリわかったのだから
中々付き合い辛いものです。
そこから友達関係も変わっていき
本音を言わず当たり障りのない
少し距離を置くような人付き合いをするようになります。
そして中2の夏、今度は自分が事件を起こします。
【夜遊び、補導、14歳の夏】
「人からどう思われているのか」
今でも時々それが気になってしまうのは
もしかしたら友達からの手紙事件がきっかけなのかもしれません。
今となってはそれも思い出だと、こうして話せますが
そう思えるまで20年以上かかったのを思うと
結構根に持つ自分に苦笑い^^;
中2頃から塾に通いはじめます。
家から少し離れた一軒家の塾で、とても優しい女の先生でした。
優しくて怒られても怖くないので
私たちは調子に乗ってほとんど遊んでいましたね。
先生の言うことは無視するし、途中で勝手に外に遊びに行ったり
それはそれは好き勝手していました。
本当に申し訳なかったです。
そうして夜遊びを覚えたわたしは
同じ塾の友達と3人で毎週のように夜の海へと繰り出し
そのうちに家族が寝静まった深夜にまで
そっと家を抜け出しては集まるようになりました。
バレないように家を抜け出すのは、とてもスリリングでした。
音を立てないように窓を開けて
閉める時にも細心の注意を払って
もちろん帰ってきた時にも同じ。
一回もバレてなかったことを後で知りましたけど
もはや忍びですよね(笑)
夏のある日
空き家に原付バイクが乗り捨ててあるのを見つけました。
誰かが盗んで乗り捨てていたようですが
私たちはそれをワザワザ押しながら
田舎の細い裏道を歩いていたところを
警察官に補導されました。
「やってしまった」という罪悪感と後悔と情けないやらで
めちゃくちゃ反省しました。
警察署で食べた中華丼、味こそ忘れましたが
ペロリと完食したわたしの図太さ?
食いしん坊さ?は今も健在でございます^^;
あの時
母が言った言葉は今でも忘れられません。
「どこで育て方を間違えたかねぇ、、、」
涙を浮かべて、母はそう呟きました。
【唯一の親孝行】
補導されてからは
心を入れ替えて真面目に勉強しました。
母の母校でもある第一志望の公立高校に受かった時は
担任の先生と号泣して抱き合いました。
社会の先生も涙を浮かべてギュッと手を握ってくれたのを覚えています。
本当にいろんな人に迷惑をかけて支えられてきて
今があるということが分かります。
高校生活は、とにかくスポーツ一色でした。
バドミントン部に入部し、毎日筋トレに励みました。
小さい頃からマラソンが好きだったので
人よりも長距離を走ることにもこだわりました。
唯一得意だったのは、サーブ
際どいところを狙って
ネットスレスレでサーブをするというセコさ?
いや、テクニックのひとつですね(笑)
ストイックにトレーニングを続けていたので
身体も引き締まっていて無駄な脂肪がない状態は理想的な体型でした。
食いしん坊が、いくら食べても太らないし(笑)
できることなら、あの頃に戻ってみたい(笑)
そんな高校生活からの進学は尾道市内にある短期大学でした。
もともと夢もなく
なんとなく進学することが当たり前だったので
高校も短大も母の母校と同じところ
それが親孝行だと思って目指していました。
無事に受かってひと安心
2年間は、あっ!という間に終わり
最初の就職は事務員として1年働きました。
その後、電器店の販売員に転職
接客業を選んだのが自分でも不思議でしたが
これが意外にも9年間勤め続けることになります。
辞めるまでずっと、オーディオ売り場の担当でした。
当時は、単品オーディオがまだ売れていた頃で
高価なプレーヤー、アンプやスピーカーが
並べてある試聴ルームもありました。
数年後には
iPodのようなデジタルオーディオが主流になるなんて
その当時は全く思いもしなかったです。
入社して5年程経った頃
わたしが26歳の年
母に癌が見つかります。
余命半年の宣告、末期の胃癌でした。
【永遠の別れ】
病院に行くことは滅多になかった母
まさか母が病気になるなんて
それも余命半年の胃癌だなんて
とても信じられない
信じたくない事実に、家族みんなショックでした。
手術をした後も
父は献身的に母の面倒をみていました。
みるみる痩せていって動き辛くなる母と
毎日一緒にお風呂に入っていました。
ある時は
「癌に効果がある中国の有名な薬だ」と
見たことのない飲み物を買って母に飲ませていました。
父は、なんとかして母の病を治そうと必死でした。
思えば
以前から少しおかしな様子はありました。
横になることが多かったり
家事を手伝うように頻繁に言われたり
わたしはそれを母の怠慢だと思っていました。
自分に腹が立つし、涙が溢れてきますが
ひとつ屋根の下でずっと一緒に暮らしていて
母親を労わるということをせず
体調の変化にも気付かない
身勝手に甘えたいだけ甘えて
母が出していたSOSを無視してきた
情けなくて情けなくて
迷惑をかけてきた自分の事が嫌で仕方ありませんでした。
母はいろんなことにおいて
本当に我慢強い人だったのだと思います。
24歳の時にわたしを産んだので
そこから26年間
妹たちにとっては22年間を一緒に過ごし
母は49歳の若さでこの世を去りました。
【父との関わり】
こうやって
こどもの頃のエピソードを思い出そうとした時に
なぜか一番出てこないのが父との記憶です。
毎年家族で梨狩りに行っていたことや
テーマパークに連れて行ってもらったことなどは覚えています。
なんていうか
日常のひとコマのような身近な記憶が思い出せないんです。
何かあれば母に相談していたので
よっぽど父との関わりが薄かったのかなという気がします。
そんな父との関係性が
「母の死」によって大きく変化していきます。
母がいなくなってから
晩ごはんの支度は妹と交代でしていたのですが
ある時、父が台所に立ったんです。
「え?父さん料理できるん?」
めちゃくちゃ意外な事実でした。
最初は簡単な一品料理でしたが
そのうちに品数は増え
手間をかけて料理をするようになりました。
料理番組を録画して
自分が作りたいものを作って楽しんでいる様子
わたしや妹が帰宅してからだと
早くても20時ごろから晩ごはんでしたが
父が作ると19時には食べることができます。
父は「みんな(わたしと妹)の帰りが遅いけー
わしはお腹が空いて待てんのよ」
そんな風に言ってましたが
そこには優しさも詰まっていたし
心がこもっていたので
父が作るものはなんでも美味しかったです。
ただ、後片付けをしないので、調理器具や料理に使ったお皿など
それはそれはてんこ盛りで、シンクからはみ出していましたね(笑)
わたしは定年退職した後の父を心配していました。
何が心配だったかというと
当時の父の趣味は釣りとパチンコでしたが
釣りはほとんどしなくなっていたので
仕事をしなくなったら
毎日パチンコ三昧になるのではないかと心配していたワケです。
父の人生なのだから
どうであろうと干渉するべきではないのですが
気になっていたんですよね。
その裏には、こんな気持ちがありました。
「恥ずかしい」
パチンコばかりしている父のことが恥ずかしい
もう、なんて娘なんだ
と自分でツッコミ入れますが本当のことです。(苦笑)
実際、最初の頃は、よくパチンコに行ってました。
それも飽きたのか
いつのまにかやめてしまって
友達と旅行に行きはじめました。
海外にもしょっちゅう行くようになりました。
最も驚いた趣味は「野菜づくり」
これにハマった父
今では農協で販売して、スマホで売り上げをチェックする日々!
それまでの父のイメージとは全く違う
誰も予想しなかった父の姿
母も天国で驚いていることでしょう(笑)
結婚して実家を出た今
父が作った野菜が届くのが楽しみでなりません。
父さん、ありがとう^^
【結婚、出産、癒しを求めて】
36歳の時に、11歳年下の旦那さんと結婚しました。
わたしは男性とお付き合いしても全く長続きしないタイプで
なぜかというと
人の良いところよりも嫌なところにフォーカスしてしまい
どんどん嫌いになっていくんです。
本当、最低な女でした(泣)
旦那さんと付き合う前は3歳年上の人と付き合っていて
その時も半年くらいで別れを切り出して
それでも長く付き合った方でした。
旦那さんとは職場恋愛だったのですが
年の差もあって、お互い最初は全く恋愛対象ではありませんでした。
旦那さんの埼玉転勤が決まった時に飲みに行くことになり
そこから急接近
なんと、結婚を前提に付き合うことになったんですよ。
これは、言わせたワケではなくて
旦那さんの意思でそう言ってくれました(笑)
なので、わたしたちはスタートから遠距離恋愛だったのですが
それが良かったのか
長続きしないわたしでも1年続き、本当に結婚することになったんです。
そこからはトントン事が運び
埼玉に移り住んで間もなく娘を授かりました。
妊娠は気長に待とうと思っていたので、本当に奇跡だと思いました。
つわりがはじまってからは
知らない土地での妊娠出産の不安から
毎日泣きながら過ごしていました。
1日のほとんどをベッドの上で過ごし
地域で流れる夕方の放送が鳴ると
「今日がもう少しで終わる」
「やっと一日が終わってくれる」という状態
何かするたびに吐き気がして
分娩台の上でも吐いたくらい、産むまでずっと続きました。
もはや、つわりではないんですよね。
そのくらい、気持ちが不安定だったということだと思います。
産後は嘘のように楽になって
初めての育児に精一杯でした。
不安定で過敏になっているのは相変わらずで
気になることがあれば
その度にスマホで検索を繰り返し
そうしているうちに、ある時
「ヒーラー養成コース」なるものに出会います。
自分で自分を癒すことができて
他者にも施すことができる
とても魅力的に感じて、すぐに受講を決めました。
それが、はづき虹映さんとの初めての出会いでした。
【思い込みに気づく】
はづき虹映さんのヒーラーコースを受講した時
生まれてはじめて
「エネルギー」を全身で感じることを体験しました。
はづきさんの手のひらから出るエネルギーが
わたしの左手から入ってきた感覚は忘れられません。
正直なところ
それまでは目に見えないものの存在を信じていなかったのですが
その出来事から徐々に認識が変わっていきました。
やはり何事も体験するのが一番早いですね。
その後「はづき数秘術」を学び
人生や真理への探究を続ける日々の中で多くの気づきがありました。
わたしはつい最近まで
母の死は自分のせいだと思っていました。
非行に走り、暴言を吐き
母にとてつもないストレスを与えてきたと、自分を責めていました。
それが原因で胃癌になったかどうかは実際にはわかりようがない
それは理解していたけれど
あまりに早い母の死を
自分のせいにするしか受け止めることができなかったのだと思います。
はづき数秘術を学ぶ中で、人の死ということにも触れました。
そこで
どんな状況であれ、人は寿命で亡くなるのだ
というシンプルな考え方に出会い、
わたしの心は救われました。
母の死は自分のせいじゃないのかもしれない。
迷惑をかけたり困らせたのは事実だけど
そのせいで病気になったのではないのかもしれない。
わたしは
「あなたのせいじゃないよ」って言ってほしかったのかも…
いろんな想いが波のようにどっと押し寄せて
そしてスーッと引いていきました。
もともと「罪悪感」を抱きやすく
あらゆることで自分を責める生き方をしてきましたが
気づくことで一気に軽くなり解放されるんですね。
また、必要以上に他人の目を気にしていることにも気づきました。
これは過去の経験が元になっていると思いますが
生きていく中で
更に自ら思い込みを強くしていることがたくさんあるんですよね。
目に見える世界が全てではない
目に見えない世界もあるのかもしれない
最初はこんな
ほんのちょっとの興味から
少しずつ少しずつ
生き方や在り方への興味が湧き
ひとつの視点だけを絶対だと思い込むのは
すごく狭い自分だけの世界を生きることになるんだと気づきました。
【無意識、そして錯覚】
過去の経験を振り返ってみて
人に抱くイメージも
思い込みが強くでていることがわかりました。
例えば、わたしは祖父を思い出す時
険しい表情や怖いイメージを抱きますが
妹たちに聞くと、優しい記憶が一番に出てくるのです。
妹たちも自分と同じように
怖い祖父をイメージしていると思っていたので
これは本当に意外でした。
全く同じ視点を持っている人はおらず
みんな人それぞれの価値観や見方、感じ方を持ち
それぞれが自分の世界の中で
判断して生きているんだということが分かりました。
また
祖父の優しいエピソードを共有することで
わたしの祖父に対するイメージが変わり
優しい姿を思い出すきっかけになったのです。
それからは
わたしの記憶の中に笑顔の祖父が蘇ってくるようになりました。
わたしの過去が変わった、と思いました。
母からよく言われていたのが
「父さんは公務員だから
ねぇちゃん(わたしのこと)が
外で変なことしたら大変なことに
なるからしたらいけんよ」
「変なことをしたら大変なことになる」
これは母の価値観であり
そこからわたしが自分の価値観をつくって
「間違ったことをしてはいけない」と思うようになりました。
(まぁでも、結局、世間でいう間違ったことしちゃったんですけどね)
そうやって
わたしたちは自分の解釈で生きてきているんですよね。
そんなことも全部含めて
いろんな出来事がつながってくると
一見ネガティブに思える出来事も全て必要なことだったと
わたしがわたしとして生きる上で
無駄な経験はひとつもなかったと思えるようになりました。
すべての経験が今の自分を創っていて
何ひとつ無駄ではない貴重な体験をしているんだ
これが腑に落ちるのは、とても大切なことでした。
そして、それら全ての思い込みの現実は
自らが創り出している錯覚だったということ
「怖い」おじいちゃんも
「冷たい」友達も
「ダメな」自分も
「優しい」母ですら
全部自分が創り出した錯覚
無意識の思い込みや無意識の価値観を
少しずつ意識化していくことで
これまで見ていた世界が変わってきているのが、今です。
【本当の自分に戻る】
はづき数秘術に出会ってからというもの
毎月の過ごし方や毎年の過ごし方などのテーマを意識しはじめ
そうすると不思議と
そのテーマに沿ったメッセージや出来事が日常に現れてくるのです。
常に自分がアンテナを張った状態なので
ベストなタイミングでキャッチできるんですね。
数秘術で自分の年サイクルというのをみることができますが
過去を当てはめてみると
母との別れから父との関わりが始まったのは
「家族との絆」がテーマの年だったり
新しくスタートをきる年には何かをはじめていたり
人とのつながりがテーマの年には多くの出会いがありました。
知らず知らずのうちに、人生の波に乗っていることがわかり
それならば、この先の人生は自ら波に乗せていくことができる
人生は意図的に創造することができるのだということを
数秘術を通して理解できました。
また、人間関係においては
それぞれの持つ数字の特徴から
旦那さんとわたしは同じチャレンジ目標を持っていること
娘は、わたしたち夫婦をつなぐ役割の数字を持って生まれてきたこと
また、講座に来てくださる方々は
みんなわたしに学びを与えてくださるメンター的存在であること
出会うべくして出会ったみんなが、かけがえのない存在だということ
それに気づけたことは大きな喜びでした。
そうやって、多くのことに気づき
気づいては修正をかけ
それを繰り返して
「本当の自分」に戻っていってる
そんな感覚があります。
人間として生きる限り
脳のクセや思い込みに囚われた錯覚世界を生きることになること
わたしたちは、自分がどこからきたのか忘れてしまって
どこに向かっているのかも、はっきりわからないまま
日々起こる出来事に翻弄され、時に生きづらさを感じながら
モヤモヤしたりザワザワしたり、みんなもがいてると思うんです。
この「もがく」過程が、すっごく大事だと気付かされました。
どうせもがくんだったら
嫌な気持ちになるもがき方じゃなくて堂々ともがいてラクになりたい。
もがいてもがいて、もがき尽くして
「本当の自分」に戻る過程を楽しんでいきたいと思うのです^^
【本当の自分を生きる】
「本当の自分」って何だろう?
創造主の自分?
生まれたままの自分?
真実ひとつの自分?
実はよく分からないのですが(笑)
このプロフィールを書くという行動
それも、誰に見られるかわからないブログにアップするという
この行動をしてみて
「自分」がどういう人間で
どんなことに反応して
どういう感情が生まれて
今の「自分」になっているのか
客観的に見ることができました。
狭い視点から出て俯瞰して
そして違う視点で見て気づいたことがたくさん
見ないフリをしていた自分もいたし
すっかり忘れていた自分もいたし
思い込みでガチガチの自分も
人から見た自分もいる
全部「自分」なんだけど
「本当の自分」とは違う気がする
頭で考えるほど、離れていっちゃう気がするんです。
なんでもそうですが
頭で考えてもコタエはでなくてモヤモヤするだけ
理想の未来を描いて
その未来へたどり着くと信じて
そのために今できることを
心、直感に従いながらコツコツやっていくと
いずれ「本当の自分」についても感覚的にわかってくるのかなと。
なんていうか
理解よりも体感したいというのが本当のところです。
わたしは究極
「自分」と「他人」を分けない世界で生きていきたいです。
人は人、自分は自分って分け続けて
ひとりがラクだと思い込んできたけど
実はさみしくて孤独で
本音を言わない裏にあったのは
知られたくないんじゃなくて
知ってほしかったという本音
ややこしい!笑
わたしは正直言うと
人のことに興味がなかったので
5年一緒に暮らしてる旦那さんのことも
よく分かってないし(笑)
だけどこうやって
自分のことを知ることができたら
人のことも知りたくなってきたんです。
ホント、不思議
「あなた」が存在してくれるから
「わたし」が存在できる
もっと全身で感じたいし
魂が震えるくらい感動したい!
地球に生まれて良かったなぁ
人間って素晴らしいなぁ
ともに喜びを分かち合える
そんな仲間がほしいと思っています。
今のわたしが大切にしたいのは
・やりたいことをやる
・本音で生きる(本音を言える)
・素直である
・裏表がない(誰にでもいつも同じ)
・自由である
・愛そのもの
・ブレない自分軸
・豊かである
・感覚を大切にして生きる
・真実ひとつ
など、あげるとキリがないし
これからも変わったり増えたりしていくと思います。
幸福感や満たされている感覚や成長のイメージだったり
それぞれに大切なこと
自分自身が大切にしたいことを
みんなにも気づいてもらいたいし
生きる目的みたいなものを持ってもらいたい
知識として覚えるノウハウは誰でも同じように伝えられるけれど
誰かに教わるでもなく自分でしか気づけないことの中に
本当に大切なことが詰まっているとわかったので
なんの目的もなく生きてきたわたしが
41歳という折り返し地点で、やっと自分のことが分かってきた
わたしだからこそ伝えられること
今、伝えたいことを、これからも発信していきます。
みなさんの人生がクリエイティブなものになり
より豊かになっていき
そして「本当の自分」とつながる人が増え
その人同士がつながることで
かけがえのない関係性が生まれるように
互いに感化しあい一緒に成長できるような
そんな関係を創っていきたいです^^
わたしの発信が少しでもお役に立てるのであれば
これほど幸せなことはありません。
最後まで読んでくださって
本当にありがとうございます。
そして、今後とも宜しくお願い致します。
笑子(えみこ)
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